追分歴史散歩
- 信濃追分駅
- 信濃追分駅 – しなの鉄道(https://www.shinanorailway.co.jp/area/shinanooiwake.php)
- 信濃追分駅- ウィキペディア(https://ja.wikipedia.org/wiki/信濃追分駅)
- 追分一里塚
- 浅間神社
- 追分郷土資料館
- 堀辰雄文学記念館
- 油屋旅館
- 旧現金屋
- 蔦屋
- 追分公民館
- 泉洞寺
- 平岡篤頼文庫
- 枡形の茶屋つがるや(津軽屋)
- 追分の分去れ
- シャーロック・ホームズ像
- 中仙道69次資料館
- 御影用水温水路
- 御代田鉄道記念館
しなの鉄道の最高所駅957m。
1909年(明治42年)6月25日 – 国有鉄道の追分仮停車場として設置、片面ホーム1つだけの簡素なものであった。
停車場の設置は追分に別荘を建てた平井晴二郎鉄道院副総裁(当時)の指示によるものだが、追分から御代田までの勾配がきつく、下り列車が一旦停車する必要があったのが停車場設置の理由。当時の御代田駅はスイッチバック駅となっていた(現在はスイッチバック線路跡に引退したD51が展示されている)。
停車場は夏季に避暑客の行き来に供するための駅となり、その後約300mほど東側に移動して現在の信濃追分駅となった。
駅は現在は無人駅、駅舎は「あたらさん」編集室として使われていたが2020年をもって編集室も終了。駅ホームは追分有志によって植栽などが整備されていて、駅から眺める浅間山も正面から雄大である。「高原の駅よさようなら」という映画の別れの名シーンもあって鉄道紀行作家の宮脇俊三も「旅情を誘われ、信濃路の終わりを感じさせられる」駅として評価した。
旧中山道の一里塚(現存するものは少ない)で国道18号線の左右にあります。
浅間神社本殿 室町時代創建
室町時代に建立された神社で、軽井沢町内最古の木造建築。
浅間山鳴動の際、明治天皇の勅祭のあった社として地元で語り継がれている。
浅間山の噴火は浅間大神(あさまのおおかみ)の怒りと考えられており、山の見える場所に「遥拝(ようはい)所」を設け、そこから山頂を仰ぎ、「浅間大神」へ祈りを捧げる山岳信仰がある。追分の浅間神社は全国に1300ほどあるという遙拝の里宮で大山祗神(おおやまづみのかみ=山の神)・磐長姫神(イワナガヒメ=縁結びの神)の二神を祀る。
信濃追分は全国にある追分節発祥の地であり、それを記した案内板も境内にあるほか、松尾芭蕉が更科紀行で詠んだ「ふきとばす浅間の石も野分かな」の句碑もある。境内東隣りに追分宿の宿場町関連の資料などを展示する追分郷土資料館がある。
追分宿は、江戸時代に「中山道と北国街道」の二つの道が合流する宿場町として繁栄しました。館内展示は、追分宿の旅籠・茶屋・問屋の民俗資料と近世宿駅制度を研究する上で重要な歴史資料を残した、本陣土屋家の古文書等を中心に展示・公開しています。
堀辰雄旧居 昭和26年建築
堀辰雄は軽井沢町内で4回転居している。追分に転居したときは最初「油屋旅館」敷地内の小池前の住居に暮らしていたが、昭和26年に現在の堀
辰雄文学記念館の場所に新居を構えた。
しかし、新居に移った2年後の昭和28年(1953)に49歳で亡くなっている。
新居を建てるにあたって書庫を別棟に作り、約200冊の蔵書を並べた。その蔵書は今でも見学が可能で本好きには非常に啓蒙を受ける蔵書セレクションである。堀辰雄の没後、堀辰雄夫人の堀多恵子さんが軽井沢町に土地・建物を寄付、現在は堀辰雄文学記念館となって貴重な資料などを展示している。
数年前に宮崎駿のアニメ「風立ちぬ」が上映され、映画のストーリーがゼロ戦を設計した堀越二郎をモデルに堀辰雄の「風立ちぬ」であったことから多くの来館客があった。
堀辰雄文学記念館の入口にある正門は、江戸時代の追分宿本陣の正門であり、隣町に保存されていたのを移築した。江戸時代の歴史を象徴する正門と文学館、そして落葉松の並木など自然がよくマッチしたコラージュとなっている。
元禄年間(1688-1704)創業
中山道追分宿の旧脇本陣、作家の堀辰雄や詩人であり建築家の立原道造らが逗留し、彼らの後を追って多くの文人・編集者・学者などが「油屋旅館」で仕事をした。
雑誌「太陽」に文士の宿(立原道造)として紹介されたこともある。
江戸時代の旧脇本陣の建物は中山道の南側にあったが昭和12年(1937)に隣家からの失火で焼失、翌・昭和13年に、川端康成、堀辰雄などが文学仲間に寄付を呼びかけ、丸子町の豪商の建物を中山道の北側に移築して「油屋旅館」として再建された。現在は「油屋旅館」は廃業しており、2012年に「本とアート」による町おこしを目的に「NPO油やプロジェクト」が設立され、「油屋旅館」建物の保全と有効活用を行いつつ「文化磁場油や」として追分地区の文化事業の拠点となっている。
江戸時代後期
追分宿で旅籠を営んでいた現金屋の建物。
江戸時代の後期の建物で蔦屋とともに宿場内に残存する江戸時代の貴重な建物である。
屋号の現金屋から両替商も兼ねていたと考えられている。
ポール・マッカートニーを現金屋前で見たという未確認情報を聞いたことがある。
文政2年(1819)建築
江戸時代後期に中山道追分宿の旅籠として建てられた。建物は中央が吹き抜けになっており、壁側に旅籠としての宿泊部屋が配置されている。追分宿の江戸時代の建物がほとんど現存していない中、貴重な追分・江戸期の地域遺産である。
平成7年(1995)設計 武基雄。
追分公民館を設計した武基雄は(1910-2005)、立原道造と石本設計事務所の同僚であり、追分に別荘があった。
立原道造は夭折した追分ゆかりの詩人かつ建築家であるが、過去に全集が5回発行されていて現在も日本一人気の詩人である。日本の詩人で全集が複数回発行されたのは他に宮沢賢治くらいであり、立原の詩は非常にロマンチックで女性ファンが多い、また建築家としてデッサンしたヒアシンスハウスは昨今の「小さな小屋」ブームで注目を集めている。
追分公民館入口には立原のリレーフ(加太肇江作)と追分ゆかりの書道家である稲垣黄鶴筆の玄関表札がある。追分地区では地域の住民と追分地区に山荘を持つ文学者、大学の先生などが夏に交流する「追分会」があり、追分公民館の建築費は追分区民、追分会メンバーなどからの寄付金で建てられ、軽井沢町にある地区公民館の中で唯一、町ではなく地区が所有する建物である。
堀辰雄のエッセイ「大和路・信濃路」に書かれた石像がある禅宗のお寺。境内にはカーリング地蔵もある。
設計:内藤廣2009年
平岡篤頼はフランス文学者、文芸評論家、小説家。早稲田大学名誉教授。ヌーヴォー・ロマン(フランス発の言語実験的「新しい小説」)の翻訳の第一人者として知られる。
クロード・シモン『フランドルへの道』、パトリック・モディアノ『暗いブティック通り』、マルグリット・デュラス『ロル・V・シュタインの歓喜』、アラン・ロブ=グリエ『反復』ほか多数。小説では、「消えた煙突」と「赤い罌粟の花」が芥川賞候補作となる。設計者の内藤廣は現在を代表する建築家で牧野富太郎記念館、ちひろ美術館、高知駅なども手掛けている。
江戸期の追分宿京口にあった茶屋で、枡形の茶屋と呼ばれた。二階の白壁には屋号がこて塗りされている。桝形とは道が直角・かぎ型に曲がる道のことを呼ぶ名称、城の防衛とか、街道の入口などに敵が攻めてきたときに簡単に直進できない直角の桝形をした道の構造である。
桝形の茶屋はその中山道・追分宿の西の入口にあった桝形の道沿いにあった茶屋である。現在、枡形の茶屋の土地・建物は軽井沢町が所有しているが、建物の修復と活用方法が緊喫の課題である。
北国街道と中山道の分岐点。道祖神、 森羅亭万象の歌碑、道標、道しるべ石、 常夜燈、石地蔵坐像、 馬頭観音立像などがある。
世界に4つしかないホームズ像のひとつ(ホームズ最後の事件となったスイスが最初、日本は世界で2番目に建立、あと2つは作家コナン・ドイルが生まれたスコットランドとホームズ事務所があるイギリスんのベーカー街)。 翻訳家・延原謙が追分油屋旅館を仕事場に「シャーロック・ホームズ」シリーズの翻訳を手がけたことから、ホームズ生誕100周年(1988)を記念して作られた。日本でのホームズのファン(シャーロキアン)の聖地となっている。
日本橋から京都三条大橋まで、中山道69次の資料が宿場ごとに展示されています。旅の体験ができる資料館です。
浅間山麓から流れる水は冷たく、水温を高めるために作られた。長さ934m幅20mあり、ゆっくり流れることで水温の上昇をはかる。数度上昇する。
追分から中山道を30分ほど下って歩くと御代田駅。旧国鉄時代は単線でスイッチバック駅だった、上り・下りとも同じ方向から列車が進入してきて方向をかえてまた出発してゆく。そこにD51が保存されています。